徐錦泉国父

17歳で単身日本へ
徐錦泉(じょきんせん)国父は、1921年、台湾の新竹の名家に生誕された。幼い頃から聡明で、洞察力に優れ、進取の気性に富んでおられた。広大な茶畑などを経営された徐家の恵まれた環境から敢えて離れることを年少の頃から決意し、親の財を使わず自ら渡航費を稼いで17歳の年に、日本へ単身渡られた。
誰一人身よりのない異国の地で、持ち前の真摯さと胆力をもってさまざまな職を通じ、経験と信頼を積み上げ、やがて建設会社を創業し、経営された。
社会的成功の陰で、14歳の時に突然亡くした母君の位牌と三界万霊の位牌を常に持ち歩かれ、真の救いの法を求めてさまざまな宗教の門を叩き、修行をなされたが、真の法に出会うことはなかった。
道を得て全てを道に捧げた
しかしお父上の葬儀で台湾に一時帰国した際、天道の存在を知り、昭和38年、大阪で得道された。このとき即座に道の偉大と、伝法の重要性を深く悟られた国父は、ご家族と共に道にすべてを捧げられ、会社経営で築いた数億円にのぼる私財を伝道に投じ、三十万人以上の得道者を輩出して、普渡収円に向けての道体を固められた。
国父が道に出遭われた当初、天命の中心は中国から台湾へ移っており、台中の天浩天壇に命があった。大道は一貫道として台湾全土に広がり、精進菜食を定着させるなど大きな功績を残すが、同時に多くの派を生んでいた。恩師の「命日本伝道書(日本に伝道を命ずる書)」をもって正統な流れで日本へ道が伝えられてからは、日本でも華僑の方々を中心に徐々に道は広まり、特に国父が道に出遭って以来、得道者が激増し、道は全国へと飛躍的な発展を遂げることとなる。
しかし普伝とはいえ当時の天道は、さまざまな制約や習慣によって縛られており、得道の門戸も狭く、人材を得て育てるには厳しい面があった。国父は「このままでは道は広まるはずがない」と因習のしがらみを取り払い、次々に新たな人材を登用して、果敢な伝道を行って、南大阪を中心とした組織的活動をもって一度の儀式で数百人、千人の人々が得道する街頭伝道が毎週末行われ、驚異的な得道者を輩出した。その伝道は全国に及ぶが、いくつかの班に分かれて数十名が動くその費用、食事、功徳費はほとんど全て国父がご負担されていた。しかし国父は決して誇らず驕らず、諸先輩を立てながら、財と人材で天道神戸総天壇を支えた。
道乱勃発、厳しい困難が続く
そして昭和58年、日本天道は大きな転換期を迎える。同時にそれは徐錦泉国父の大きな苦難の始まりでもあった。
それまで台湾・天浩天壇の一支部であった神戸総天壇は、日本開道以来のやり方で一部の経営陣の個人的経営の域を出ておらず、ご神仏からたびたび沙盤を通じて組織改革の必要を説かれていた。諸先輩のもと、国父は組織改革にも力を尽くされようとし、昭和58年4月、理天神・考試院長のご指導に沿って長い期間を経て準備された第一次領導理事会選挙が行われた。
しかし、個から公への天道組織機構制定に対して反発する不満分子によって、開票直前の4月26日、動乱が勃発した。多くの人を導いた責任感から国父は事態の収拾にあたられ、見えないご神意に導かれながら、昼夜を問わず天道の立て直しに奔走された。
第一次領導理事長拝命。天命は日本へ
厳しい困難の中、国父はいつしか道を背負う立場へと押し上げられ、道体の基盤は単頭式から多頭式へ整備された公明正大な新組織へと移っていった。そして選挙の結果、国父は第一次領導理事会理事長に就かれることとなった。
そして、昭和59年新年節で、恩師より領導理事会に天命が降下される。その年の秋には台湾から鄧明坤(とうめいこん)前人ら五名が動乱の視察のため来日された。この時、前人たちは細かく状況を調査され、「徐錦泉の言い分が最も正しい」と判断し、新組織である領導理事会こそが天命に沿ったものであり、又、前人間の了承をもって現領導理事会に天命があることを認証された。
翌年、まだまだ続く大きな妨害の中、天道山(現玉皇山)で第十期臨時点伝放命が行われた。これは台湾・天浩天壇から独立し、天命が天道総天壇へと移ったことが神仏からも証明され、五千年にわたる道統の天命は、日本の天道総天壇へと託されたのである。
あらゆる霊を救う体制を整える
無から有を創りだす国父の類まれな指導力によって、天道は普渡収円へ加速していく。特筆すべきは、それまで天命をもってしても人身を得た霊しか救うことができなかった大道を万霊に開放し、三界、輪廻外の霊の存在を世に明らかにすると共に、霊界の不均衡な支配搾取のシステムを根元から解体したことである。
それまで、天道で霊界の救済を語られることはほとんどなかったが、有縁無縁の霊たちは真の普渡が開き、救いの光が届くことを待ち望んでいた。国父は霊を昇神させ、衆生を受け入れるために天より降された護摩を修法し、強制ではなく忍耐強く霊界の立ち上がりを待ち、神人霊の結集力をもって着実に道をここまで持ってきた。
霊は一方的に救われる側ではなく、大道のもとで力を発揮することで徳積みし、神人霊が一体となって白陽地上天国の基盤づくりをすることとなる。
救済されるのは今大元の霊のみではない。国父は、さまざまな試練に直面しながら危機を乗り越えて、天地開闢以来の一大元だけでなく、144大元の残霊を救う体制を固められた。ここに普渡収円の体制が完成し、玉皇山みろく寺に祖師、恩師、そしてすべての道統祖師とその徒たちの御霊を迎える墓廟を落慶し、三界万土にそびえる永代の聖地が誕生したのである。玉皇山は、まさしく祖師、恩師と一体となられた国父の強い信念が、形となってこの世に顕現した白陽地上天国の核である。現在、徐錦泉国父の天命のもと、唯一正統天命の大道は、収円帰一への聖業を進めている。
対極世界に基軸を移される
平成30年10月13日(旧暦9月5日)御帰天 享年97歳
帰天後は対極の世に赴かれ、人盤統掌の天命執行と共に、対極、次大元創世の陣頭指揮を執られている。徐錦泉国父の命日である旧暦9月5日は国父の日と定められている、国父の日は、中心・人盤統掌徐錦泉国父を確とし、今大元と次大元の両界の絆を深める特別な日であり、神国人にとって最重要な国事である。国父の日では、国父が砂盤に降りられて御聖訓を綴られる。この御聖訓が「国父聖典」である。
辛丑歳令和3年夏季大典にて、永位領導理事長の職を任命された。